■ 自家製餅 ■
自家製餅の絵  「えー、坂田はん、ほんまにやるんかいな」
 息せき切って車でやって来た餅加工専門店の主人は、仰天した顔で父に問い詰めた。
「この機械はどっから持ってきたんや。配置や据付は誰が考えたんや」
 それらしく設置された機械を不審げに見つめていた。そのうち話しがだんだん真剣に、具体的になってきた。
「ところで肝心の『蒸篭(せいろ)盛り』は、どこから連れてくるんや」
「『杵(きな)取り』は、誰がやるんや」
 商売として餅の製造をするなら、中心となる職人がいなくてどうするのか、といった調子で畳み掛けてきた。
「蒸篭盛りは、息子がやる。杵取りは、家内や妹がやる」
「あほもええ加減にせー」
 主人はあきれ果てたという風情で荒々しく帰っていった。


 私が高校一年の冬、十二月の初めの頃だったと思う。父にしてみると予定の行動だったのだろうが、突然、家に餅つき機を設置し、 家族で餅を製造することになった。バタバタと準備が進んで冬休みに入り、従来だと餅箱や、餅米を大量に餅加工店に運搬する頃になっていた。 ある日突然、餅加工店の主人があたふたとやって来たのである。正月餅の季節になると、自転車にもちゃんと乗れないような子供が、 アルバイトの中学生と共に、大きな餅箱を何杯も、日に何度も運んでいるのを見ても、一度として車を出したりしなかった人がである。
 もちろん父は加工店に、あらかじめ今年からは自分のところで餅を製造することを伝えていたのであろうが、
「素人の女子供で、賃つきの餅ができるはずがない」
「そのうちにやっぱり頼む、言って来るやろう」
 そう高をくくっていたようである。しかし、いっこうに頼みに来ないし、よその店に加工を依頼している様子もないので、 不審に思い、見に来たのである。


 当時は、「賃つき」すなわち、餅加工所が、客の持って来た餅米を、加工賃を取って餅に加工する、という方式が一般的であった。 その中継ぎをして、わずかな運び賃を得るという商売は、もうけに比べてあまりにも労が多く、効率が悪かった。
「何とか自分とこでできんもんかなぁ」
 父はもちろんのこと、家族皆が永年考えていた。
 ちょうどその頃から良質の餅米がごく普通に販売されるようになってきていた。それまでは、「配給米」と「上白」という餅米 の品質の違いがあり、注文を受ける時の大事なポイントだった。それを考慮する必要がなくなりつつあったのである。 個々のお客さんがわざわざ手持ちの餅米を賃つきに出して加工してもらう意味がなくなってきていた。加工賃の商売ではなく、 餅そのものを販売する商売に変わりつつあったのだ。
 父は、この状況をみて、家族で餅を製造しようと決断をしたようである。
 十二月のある日下校すると、裏庭に簡易の二階建てを増設して一階部分を土間にしてあった一角に、石臼が据え付けられ、 杵が上下する餅つき機が設置されていた。
「どうしたん?」
「今年から家で餅を作るで」
「機械はどうしたん?」
 つてをたどって、中古の餅つき機を購入し、加工店で見て色々考えた方法を、知り合いの大工さんに設置してもらったという。 その後、電気も動力用を引き、中古の釜をどこかからか手に入れ、鉄工所に頼んでボイラーも設置した。 加工した餅を干す組み立て式の棚も作成し、次々と餅製造の仕組みが整ってきた。
 父は、よほど前から、餅を自分で製造しようと、色々研究し、段取りをしていたようである。サラリーマンから戦後転職し、 商売などしたことのない父がパンの小売を始めて、よくここまでやったものだと思う。
 設備がどんどん整ってゆくある日、
「それで、誰が『蒸篭盛り』をするん?」
「お前や」
「そんなんしたことない」
「あほ。今まで何回も賃つき店に行って、どんなにしよるか見て、解っとるやろう」


 餅製造というのは、年季の入った職人の頭(かしら)、いわゆる「蒸篭盛り」の指示に従って、洗って水に漬けた餅米を職人たちが、 お客さん毎の分量で蒸篭に盛る。その蒸篭の横に「蒸篭盛り」が白墨で、名前と、鏡餅、子餅、のし餅などの餅の種類、 及び数量を書き込んで管理する。蒸篭が順次蒸し上がると、その書込みに従って、各種類の餅への加工を「蒸篭盛り」が各職人に指示する。
 その大きな蒸篭が五段、六段と積まれて、次々と蒸気が上がってくる。蒸しあがった米に印が付いている訳ではないから、 連続作業の中に混同が起こり、「蒸篭盛り」の怒声が飛ぶ。
 洗い米の蒸篭への盛り込みが遅れて、各蒸篭の蒸し時間にむらが発生し、加工が中断して、また「蒸篭盛り」が叱りつける。
 そんな戦場のような作業場と、指揮をする「蒸篭盛り」の、全体を間断なく進めてゆく役割の大変さを何年も見てきている。いくら父から、
「やろうと思うたら、できる。できんのは、やる気がないからや」
 とけしかけられてもすぐに
「はい」
 とは言えなかった。
「あんなやり方を、そのまんまやろうとしたら、そら無理や。何かもっと簡単なうまい方法があるはずや。考えてみー」
 父にはすでに成算があるようだが、何も具体的に指示をしてくれない。


 それから、私は、前年の注文伝票を引っ張り出して、何とかしてやろう、と「計画」を立て始めた。私は、同じ米を蒸して餅を作るのに、 いつまでもお客さん毎に、それぞれ違った分量の米を蒸篭に盛って管理する方法を、かねてから疑問に思っていた。 蒸篭は均一に盛れば白墨で個別に書いて管理する必要はないはずである。しかし、そんな素人が思いつくようなことは、 専門の古い職人が考えないはずはない。何か個別に盛る理由があるのだろう、と思い、今まで言わないでいた。父にやれ、と言われ、 考えろ、と言われれば、この自分の考えを発展させるしかない。


 「蒸篭をおんなじに盛ったら、どのお客さんのか分らんようになる」
「お客さんの分言うても、鏡餅、子餅、のし餅に区別がある訳やない」
「お客さんの餅も種類別に分けて作って、後で組み合わせたらええ」
 素人の大胆さ、勝手に考えて、父に話した。
「ええやろう」
「はじめに注文伝票を、鏡餅中心のもん、子餅中心のもん、のし餅中心のもんに分けといて、その中心の分だけさっきに作ったら、 蒸し方も変えられるからええ」
 すっかり「蒸篭盛り」になった気で、作戦をたてた。
「それでいこ」
 父も、元からそう考えていたようであった。
 結果としては、この方式は大成功だった。均一に盛るために、米を盛る担当は誰でもよくなり、製造する者も、鏡餅、子餅、 のし餅と連続するために、種類を混同することがなくなった。この種類の組み合わせを適宜操作することにより、作業に抑揚がつき、 手伝う家族や親戚が深夜でもなんとか元気で作業を継続することができた。
 何か大変専門的なことを、勝手に考えてよいのか、と言う気持ちがあったが、この父の
「ええやろう」
 の一言で、踏み切れた。何よりも、父自身が素人なのに、設備を設計して仕組みを作り上げたことの刺激が大きかったように思う。
 今にして思えば、年季の入った専門の職人は、「賃つき方式」から「製造販売方式」への変化に即応しきれず、 各家の注文毎に個別に蒸篭盛りするやり方からなかなか脱却できずにいたようだ。かえって素人の方が簡単に思いつけたのであろう。
 もうひとつの製造中の課題は、「杵(きな)取り」である。これは普段の父と母のやり方を見ていて、
「絶対またお父ちゃんが、いろいろ見てきて、自分はでけへんのに、解ったようにお母ちゃんに言うてやらせるんやろうな」
 と見当がついていた。それまでも、父はどこかに行って、赤飯やら、団子やら、フライ饅頭などの作り方を見てきては母に、
「ああせー。こーせー」と指示をしていた。子供心にも、その指示が誠に的確で、
「いつ、あんなに詳しい見とんやろ」
 と感心していた。同時に、その父のすべて解ったような指示を、父自身ができもしないのを百も承知で、
「ふん、ふん」と聞いて、巧みに、その赤飯、団子、フライ饅頭などを作り上げる母にも驚いていた。
 「杵取り」は、やはり父が解ったように指示をし、母が色々工夫をして、何回も練習を重ね、次第に実用のレベルになっていった。 重い鉄棒の先に付いた木製の杵が、モーターによって、「ドカン、ドカン」と落ちて来るのである。 その下で、適宜水で湿らせながら、大きな石臼の中の蒸し米をさばいてゆくのは、実に危険な作業である。 よく取り組んだものである。父の指導と、母の根性に今も驚きを覚える。


 こうして、我が家の餅製造は、始まったのである。父の
「やればできる。でけんのは、やらんからや」という信念、
「全体を見て大筋を把握し、基本のやり方を決めて、細かいところはポイントをつかんでおけば、物事は大体できる」 という考え方のたまものである。
 もちろんこの「何でもできる」という考えは、いつも正しいとはいえない。しかし、「精神一到何事か成らざらん」のことわざを、 実践の場で教えこんでくれた父に、今も感謝している。


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