■ 小さな家出 ■
小さな家出の絵  「もういっぺんゆうてみぃ」
「…」
「なにをだまっとんねん」
「…」
 竹の物差を持った父に追い詰められて、私はついに店先から外へ出た。
 怒る父もその場を離れない。私はどうしてよいか分からず、雨の中にしばらく佇んだ。
 間もなく私はフッと、向きを変えて歩きだした。
「とんでもないことをしよる」
 大げさに言えば、それまでの人生では思いもしなかったことをやっている、という気持ちだった。
「どうするんや」
「どうしようもない」
 自問自答しながら、雨に打たれてしばらく歩いた。予定していたわけでもない、困った挙句のことだから、 靴も履かずに裸足のままだった。毎日の習性で、こんな時にも自然に朝のパン配達の順路をたどっていた。


 私が小学校六年生の、ある雨の日のことであった。
 半そでの白いシャツを着ていた記憶があるから、夏であろう。
 父に何か注意されたか、叱られて、なぜかその時は珍しく、口応えをしたようである。
もちろん六年生にもなって、父に叱られて抗弁もせず、「はい、はい」とばかり言っていたわけではない。 家業のパンその他の配達に関して、打ち合わせや相談をする中で、言い合いになることもあった。しかし、そんな時に父は、
「親の言うことが聞けんのか」
 と親の権威を持ち出すようなことはなかった。意見が違っていても、それぞれの意見を実行してみた場合に 結果がどうなるかを冷静に考えて判断し、
「そうやな、それでいこ」
 子供の私の意見をサッサと採用することも、日常であった。だが、ささいなことや、どちらでもいいような場合には、
「もうええ」
 父の方針を断固として実行していた。
 この雨の中を出て行った時の出来事は、そのような商売上の相談や、ささいな問題の場面ではなかった。 親として子供を躾けようとした時で、子供が口応えをすることなど、ありえない場面だったようである。
「家を出て歩き出した」という、今までにしたことがないような行動の印象が強すぎたためか、その叱られた内容は、思い出せない。


 気がつくと、朝一番の配達の停車位置である、赤坂通八丁目の近くである。いつもであれば、アッという間に到着する場所である。 しかし、足は、そのまま配達の経路をたどらなかった。西川さんの角を西に曲がり、しばらく立ち止まった。
 毎日配達をしている場所で、雨に濡れている裸足の自分を見ていると、家族皆で懸命にパンの配達などをしているという、自分の生活の基盤がなくなるような淋しさを感じた。 しばらく雨に打たれて気持ちも落ち着いたのか、気がつくと、家への道を引き返し始めていた。
「子供の自分が悪いのはわかっとる。親に注意されたいうて、家を出て行くんは、とんでもないことや。 出ていけ、言われてもおらんのに出て行くんは、親への反抗や」
「せやけど、あんなになってはどうしようもない」
「大変なことしてしもた。とにかく帰らんと」
 さまざまに心は乱れたが、覚悟を決めて家に帰った。


 そっと店を見ると、父は居らず、母が心配顔で外を見ている。目が合うと、母は、
「早よ入って、お父ちゃんに謝り。何にも言わんでええから」
 と私を家の中に入れた。
 先ほどの怒りの形相ではなく、ブスッとした顔で父は座っていた。ホッとしながら、それでもバツの悪い気持ちだった。
「ごめん」
 もっときちんと、素直に謝ればよかったのに、と思いながら、次にくるであろう父の叱る声を待った。しかし、
「もうええ」
 父はそれ以上何も言わず、向こうを向いて新聞を読みはじめた。
 その後どのようにして、事態が日常に戻っていったのか、記憶は定かではない。六畳一間だけだったところに、 三畳ほどの部屋が付け足されていた。バターの木箱を分解した板で床を上げ、トタンで屋根を葺いた粗末なものであったが。 それでも、一人で拗ねている場所などなかった。翌朝はいつもどおり、家族皆で朝の慌しい配達をしたことは、確かである。 いつまでも感情のくいちがいを持ち続けるような、ゆとりなどない生活状態が幸いしたと思う。


 後で母に聞くと、あの時、母は父に、
「純ちゃんも、もうすぐ中学生やから、もっと話しを聞いてやって」
 と父にいろいろ話してくれたそうだ。父は、返事もせず、
「なにを偉そうに言うとんや」
 とも言わないで、黙って聞いていたそうである。
 昔かたぎの父は、父親の権威にかかわるような時や、つまらない言い合いになってしまったような時は、 返事もしないでただ黙っていた。それでもなお、
「聞いとんの。返事ぐらいして」
 などと言おうものなら、
「やかましい。だまっとれ」
 と怒鳴られたものだ。そんな父が、ただ黙っていたのである。


 その後は特に変ったこともなく、毎日の商売が続けられた。私は何も言われなかったことをいいことに、 親に対する姿勢が変る、というようなことはなかった。父も変に私に気を使うようなこともなかった。
 ただ、親として子供を躾ける場合でも、新聞を読みながらの議論や、商売上の相談の時のように、
「どう思う」
「そうと違うやろ」
 私に考えを求めたり、考えさせたりすることが多くなったような気がする。


 父の叱り方を振り返ってみる。
 小さい頃叱られて泣くと、その泣いているのをさらに叱られた。
「顔を洗ってこい」
 洗面器で顔を洗い、また正座をして続きの注意をされるのが常であった。


 少し大きくなると、泣くようなことはなくなった。そのかわり、叱られることが重なったりすると、何も反論はできないのだが、
「なんで、こんなに怒るばっかりするんやろ」
「お父ちゃんの言ったことを巻物に一つ一つ書いて、大きくなったら見せよう」
 時代劇の映画か、漫画に影響されたのであろうか、そんなふうに思い込んだこともある。
 しかし、そんな巻物はついに日の目を見ることはなかった。父が私達を叱る時も、その意味は分かっていた。 どんなに厳しくても、毎日の配達を通じて、自分達を心から育ててくれているのだ、という絶対的な信頼感に変りはなかった。 巻物を作る気持ちも長続きはしなかった。
 また、父もサッと切り替えて、雰囲気を変え、根に持つようなことをしなかった。叱られる回数が重なった場合、 私は、ただその回数に参っていたのである。
「頭で考えれば、分かることや。頭の悪いのが、親の言うことが分からんと反抗したり、不良になったりするんや」
 小さい時から聞かされていたから、自分でもなんとなく、
「親に口応えするのは、あほや」
 と言うような思いがあった。このあたりのことも、父は、よく分かってのことだったのだろう。


 高学年になると、少し口応えするようになった。
「ああ言うと、こう言う。こう言うと、ああ言う。どう言うたらええん」
「その通りや。何も言わんでえぇ」
 軽くいなされる。
「ちっとも言うたかいがない」
「怒ることが目的か」
 私はふて腐れたりすることもあった。反抗期だったのだろう。
 幼い下の妹にチョッカイを出して、妹が泣くと、すぐ父に怒られていた。時には、ぬれぎぬで、 私と関係なく妹が泣くことがあっても、叱られることがあった。そんな時私は、
「あの馬鹿見ても、遊んでも、あのおっさんが怒るので、ああ怖い、ぞっとするよ」
 などと節をつけて歌っていた。「あの馬鹿」とは、よく泣く下の妹のことであり、父を「おっさん」とは、 私もだいぶ小生意気になっていたものである。


 父も私も、新聞をよく読んで、それについてよく話をした。高学年になると、しょっちゅう、私に意見を求め、耳を傾けてくれた。
「お前、ここどう思う」
「なるほど」
 子供の意見など取るに足りないものだったと思うのだが、父はそんな私との議論を楽しむようなところがあった。 私も、それに答えて、生意気に父と議論し、時に私が理想論とさえも言えないような空論を強く主張すると、
「言うことは何とでも言える」
「ほんなら、何も聞かんでええのに」
 悪態をついたりすることもあった。こんな調子だから、反抗するというよりも、一生懸命父親と議論していたというのが、 より正確であろう。
 配達その他の仕事のやり方について、親子で打ち合わせをし、相談をすることは頻繁であった。そんなとき、話し合というか、 しっかり自分の考えを述べることが欠かせなかった。意見が食い違っても、現実の商売にかかわる問題の解決が先で、 いわゆる「言い合い」をするような余地はなかった。まして父に反抗するなどというような雰囲気にはならなかった。
 反抗期なりに、反抗したい気持ちが高まっても、こんな風に議論したり、相談したりするなかでは、 なかなかその気持ちも長続きしなかったようである。


 そんな中での、私の「小さな家出」は、極端に言えば、「はしか」のようなものだったのかも知れない。 しかし、それを機に、父の私に対する躾けのレベルは一段階上がったようである。


 近所の人やお客さんはよく私達親子を話題にしたらしい。
「さかた屋さんとこは、ようあんなにお父ちゃんと男の子が話すね」
「どうしよんの。なんか秘訣があるん?」
 そんな話しを伝え聞く私は、子供心に、
「家族全員が力を合わせて必死で商売しよんや。そんな時に、のんびり反抗期もくそもあるか」
 と、いつも思っていた。


 忘れてならないのは、父が叱っている時はいつも母が、父と共に親としての立場を堅く守り、 子供の前で決して父に異論を唱えるようなことをしなかったことである。
 もし、母がそれをしていれば、子供達の受け取り方は、随分違ったものになっていたと思う。
 父の指導は、この母の強い協力がなければ、決して効果を発揮することはなかった。
 それでいて、この短い家出の時のように、母は子供のいないところで、よく父と相談し、 父の教育方針を理解した上で、自分の意見も述べていたのである。


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