| ■ 群れるな ■ |
「あいつ皆でやっつけよう」「人に誘いかけんな。やるんやったら、自分一人でやれ。卑怯やぞ」 「お前、何をそんなに偉そうに言うとんねん」 私が相手にしないでいると、今度は私に文句を言ってきた。 小学五年生の昼休みのことだった。何かのことで、友達が誰かをやっつけようと、相談を持ちかけてきたのである。 「群れるな」 とっさに、父の言葉がひらめいた。 「男は、やる時はいつも一人でやれ、決して群れるな」 父は常に言っていた。そんな父の教えを、小学生の私がいつも頭においていたとは思えないが、たまたま、 この時は、特に「群れ」て「一人をやっつける」と言うことに敏感に反応したように思う。 「仲間を誘おうとするのは、自分に自信がないからや。自信がないんやったら、すんな」 「誰かと勝負をするんやったら、必ず一人でせー。仲間を誘うような卑怯なことはすな」 「自分がそう思わんことを、人が言うからいうてすんな」 「目的もなく、ダラダラと男が集まるな」 私はこと毎に父に言われていた。 この「群れるな」という教えは、私の男としての生き方の原点となったようである。 そのため、群れることに対しての拒否感が私の深いところに芽生えてしまったようで、必要以上に単独行動をとったり、 人の集まりを意識して避けるようにもなった。「とにかく一人でやらないと、卑怯だ」 という感覚がすっかりでき上がっていたようだ。 学校での成績はクラス一番でも、放課後すぐに家に帰って夕方のパンの配達に行き、先ほどまで学校で一緒にいた同級生達に 「さかた屋ですが、パンいくつしましょうか」 「三つ」 「はい、ありがとうございます」 柏餅など季節の和菓子販売の時期には、父が謄写版で印刷した宣伝ビラを買い物籠に入れて、電信柱に貼りに行く。 腰につけた小さなバケツには、母手製の糊が刷毛と一緒に入っている。 「このへんかな」 子供なりに人目につく電信柱を選んで、糊を電信柱に塗り、買い物籠からビラを取り出し、貼り付ける。 「何しょんねん」 振り向くと、クラスの友達が、二、三人で遊んでいる。ただ黙って、肩を怒らせて、足早に次の電信柱に急ぐことも、 度々であった。 そんな中で、いつしか父の「群れるな」という教えを、「人とは相談しない。何でも一人でやる」という風に偏って解釈してしまい、 悪く言えば「粋がって」いたような傾向もあったように思う。 しかし、よく考えると、父は 「群れるな。自信があるなら一人でやれ」 と常に指導しながら、一方で、 「人間一人でやれることには、限界がある。うまく人を集めんと、一人ではできんことはようけある」 「組織の重要性」をパンの配達をしながら、よく話してくれていた。また、 「自分がよう考えもせんと、わーわーと皆の尻馬に乗って、無責任な行動すんな」 そう言いながら、 「皆で相談して、自分の意見が通らんでも、言うことは言え。そやけど最後に自分の意見と違うことに決まっても、 潔くそれに従うもんや。俺は反対や、言うて協力せんのは、男やない」 常に「協議」と「実行」が別の基準で動くことを強調していた。 これら一見矛盾とも思える人生の機微を、小学生である私は、どれだけ理解したであろうか。 「一人でやる」といいながら、「皆で協力」をする、「一人でやる」んだが、「皆で相談」をする、 この一見正反対のように思えることを両立させるのは、本当にむずかしかった。 この「群れるな」から始まり「相談」「協力」そして最後には「一人でやる」という問題を、 偏る危険性がありながらも、父は、小学生の私に与えてくれたのである。そして、そのどちらも基本は「男として一人でやる」 ことを教え込んでくれた父に、尽きせぬ感謝をしている。 この問題の両立に今も努力中、と言うのが正直なところだろうか。 |
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