■ 朝の配達 ■
朝の配達の絵  何の気なしに教室の廊下側の窓に目をやると、おとなの人影。皆も気になるようで、チラチラ見ている。
「こんな時に、誰かな?」
「もしかして」
 思う間もなく、先生が
「おい、坂田。お父さんが用事や。廊下へ出ぇ」
 私はびっくりして廊下に出た。
「つり銭忘れとる。早よだせ」
「ごめん」
 急いで半ズボンのポケットから、ジャラジャラと小銭を出して父に渡し、教室に戻った。


   私が小学校三年の頃のある日、一時間目が始まって間もない時のことである。


 終戦後、勤め人から一転して始めたパンなどの小売である。借金してようやく持ったトントン屋根の小さな店。 しかも近所には老舗のパン製造店があるという環境でのスタートである。店売りだけでは、とてもやっていけなかった。
 父は、徹底して一軒一軒配達し、食パン一斤だけでも配達する、という商売の仕方を基本にした。
 しかし、別に配達の店員を雇えるわけもなく、その上、神戸はすべて坂の町である。ようやく買った中古の自転車にパン箱、 牛乳の袋を後輪の左右につけ、ひたすら押し上げてゆく。この重さでは、とてもじゃないが、誰かが後押しをしないと長続きしない。
 この店に越してきたのは、私の小学校一年生、二学期の初めだった。その数日後から、当然のように、 私の配達を手伝う生活が始まったのである。二つ下の妹は、その翌年、五才の時に早くも始まった。
 お客さんの朝食用のパン、牛乳などをその日の朝に配達するので、おのずから配達に出かける時間、 それに合わせてパンを切ったり包装したりする準備を始める時間も決まってくる。両親は、おそらく、 五時には起床していたのだろう。われわれ子供は六時起床だった。
「起きぃ」
 母の一声で跳ね起きて、トイレ、洗面を急いですませる。店に出ると、すでに両親は、切ったパンを包装したり、 パン箱につめたり、特別注文の品物を整えたりしている。私と妹も、急いでパンの包装を手伝い、輪ゴムを伸ばして緩くし、 一包みづつに掛けてゆく。この輪ゴム掛けは、間もなく、セロハンテープにかわり、パンを締め付けないで、 しかも、早く作業できるようになった。
 瞬く間に準備、積み込みを終えて、さあ出発だ。
 父が前でハンドルを握り、私と妹でパン箱の後ろを懸命に押してゆく。赤坂八丁目の最初の停車位置に近づく前に、 二人はそれぞれの方向に駆け出してゆく。
「おはようございます。さかた屋です。パンいくつしましょう?」
「上食三つと牛乳二本」
「はい」
 聞いた注文を、なるべく早く大きな声で、少し離れていれば、手まねで父に知らせる。うっかり、 自転車まで戻ってから言おうものなら、自転車に近づく前に、父の催促が来る。
「サッサと言え。早よ合図せー」
 注文が定例的に決まっているお客さんの場合は、その前の家の配達が終わって出発するときに品物を用意して、 ハンドルにかけてある買い物かごに配達順に入れておく。自転車が次の停車位置に着く前に、サッとそのかごを取り、 駆けて行く。この時もうっかり停車してから準備しようものなら、
「ぼやぼやすんな。顔洗うたんか」
 父の一渇(かつ)が飛ぶ。


 「一軒一軒の配達」と、「付けでの支払い」を売り物にしていても、現金払いを好むお客さんも多い。 そんな時に備えて、各自ポケットにつり銭を用意している。
「食パン三つ、あんパン二つ、牛乳二本持って来ました」
「なんぼ?」
「九十五円です」
「はい、おつりちょうだい」
「はい、五円おつりです」
 それこそ、足踏みをせんばかりに急いでお金を受け取り、おつりを渡す。百円札は、小銭の出し入れの時に一緒に落さないように、 しっかりたたんで反対側のポケットにいれて駆け戻る。
「あれ、おらへん」
 とっくに自転車は、次の停車位置に移動している。必死で駆けて行くと、父が、腕を曲げて前後に振っている。
「もたもたすんな。急げ。何のんきにしよんねん」の合図である。
「お札でおつりやったんや」
「そうやったら、追いつくように考え」
 確かに、いつもの自転車経路ではなく、近道を走るとか、その家の裏から出させてもらうとか、いくらでも、 追いつく方法はある。本当に気が抜けない。
 ましてや、おつりの計算に手間取っていたりしたら大変である。
「お前、学校行きよんやろ」
 何年生で二桁の足し算を教わるのか、引き算はいつから、九九は何年生、などということは関係なし。 学校で習おうと習うまいと、必要な計算はできて当たり前、できない方がおかしい、と父は考えていたようである。
 事実、妹は、五才の時に、必死で計算をしなければならなかったことがある。昼間に一軒だけ臨時にケーキを届ける必要ができ、 母は妹にケーキと必要なつり銭を渡して店を出したのである。ところが、配達先のお客さんとつり計算にくい違いが生じたのである。 必要分のつり銭しか持たされていなかった妹は、自分で一生懸命計算をして説明したのである。
「ごめんね。お嬢ちゃんの言うとおりやったわ」
 後日お客さんが、店に謝りに来たことで明らかになったのである。


   「機敏に」「機転を利かして」「計算は当たり前にサッサと」
 雨が降ろうが、風が吹こうが、朝六時起床のパン配達は、父の子に対する真剣な教育の場であった。


 「あそこの家、次の人が越して来たみたいや」
「そうか。夕方の配達の時に、ちょっと聞いてみよう」
 越して来た家があれば、さっそくお客さんになってもらいに行く。
 小さい頃は、このように情報を早く父に伝えて、父がたずねて行く、というのでよかったが、四年生くらいになると、
「おい、青谷荘の一階に新しい人が入ったやろう。お前行ってこい」
 いくらいろんなお客さんのところに、それこそ毎日何十軒と配達していても、見知らぬ大人に声を掛け、 しかも、売り込みをするなどということは、なかなか勇気のいることだった。
「ちゃんと聞いてくれるかな?」
「お父ちゃんが行った方が、ええんとちゃうかな」
 そんなことで、父が
「そうか。わしが行こうか」
 と、言うはずもないが、どうにも足が重いことが多かった。


 余談だが、小学校二年生の夏休み中のある日、夕方の配達を終えて、父と近所の銭湯に行ったときのこと。 言わなくてもよいのに、父に言って、困ったことがある。
「石原先生が来とる」
「ちゃんと挨拶したんか」
「してへん」
 学校の先生に銭湯でなんか、恥ずかしくて話しかけられない、というような言い訳をした。とたんに、
「あほ、ちゃんと挨拶してこい。それまで、出てくるな」
 洗い終わっているのに、手持ち無沙汰で、一層体が硬くなって、先生の後ろにそっと近寄るのだが、声が出ない。何度かためらった後、
「先生、こんばんは」
 蚊の鳴くような小さな声で挨拶して、大急ぎで脱衣場に出た。
「してきた」
「そんなもん、サッサとやらなあかんで」
 私はやっと服を着た。
 対人関係については、パンの配達以外でも、こんな調子であったから、父がいったん言えば、 「恥ずかしい」などと言えないことは分っていた。


 とにかく父の言うとおりに実践しているうちに、たいていの場合、気後れしたり、思い迷うことなく、 駄目でもともと、と戸を開けられるようになった。ちょっと言葉を改めて、近くのお客さんのことなども交え、
「こんにちは、さかた屋と言います。パンや牛乳を毎日配達してます。」
「二階の木下さんとこにも持って来てます。どうですか?」
 子供ながら懸命に工夫して、お客さんを増やしたものだった。やがては、自分で積極的にたずねて、父に報告するようにもなった。
「お父ちゃん、サハイさんの向かい、パン買うてくれるで」
 サハイさんとは、インド人の貿易商で、さかた屋のよいお得意さんであった。


 「根性」「甘えない」「工夫」「礼儀正しく」
 朝の配達のためだけではなく、父は、一貫して子供を実地に教育してくれた。あの、朝の目の回るような忙しさの中で、 もちろん、背に腹は替えられぬ切羽詰まった事情があったにせよ、よく鍛えてくれたものだと思う。


 坂を順々に上って配達し、山の麓までゆくと、五才の妹は家に駆け帰って、我々の朝食の味噌汁を用意する。 父と私は、今度は坂を下りながら配達し、川を渡ってもう一度山際まで…、と次々配達を続ける。 日曜日などの休日は、妹も最後まで一緒に配達を続ける。そんな時に、ちょっと休憩をいれて、 牛乳一本を三人で分け合って飲むのは、実にうまかった。
「電話番号の下までや」
「いや、上までや」
 牛乳ビンの外側に印刷してある、メーカーの電話番号の、上か下かで、飲む量を争っているのである。
 少し長い下り坂になると、私は自転車の後ろに飛び乗り、妹は前の棒に飛び乗る。
「ええ気持ちやなー」
「タダニーは、ただにしとこか」
 トルコ人だったか、イタリア人だったかのお客さんの名前をもじって、父がダジャレを言う。
 そんなとき、何かのことで叱られて、張り詰めた気持ちの時であっても、何か気持ちが和んで、嬉しい気分になったものだった。


 平日の慌しい配達を終えて、帰り着くと、途中から先に帰った妹が、カンテキに火をおこして作った味噌汁を飲みながら、 大急ぎで朝食をとる。
 その間、朝六時半過ぎに、父、私、妹の三人を配達に送り出した母は、店に来るお客さんを応対しながら、 父が六甲方面へ配達に行く準備をしている。まだ二才半で、
「六甲へ帰る、六甲へ帰る」
 と、引っ越す前の家を恋しがる下の妹の世話をしながらであるから、なかなか忙しい。そんな猫の手も借りたいときに、 五才とはいえ、妹が味噌汁を作ることは、母にとっては、大きな手助けであった。もっとも、その下の妹も、 数年後、五才になった頃からは、姉と同じように、配達に加わるようになった。


 さて、これであとは登校するのみ、と思ったら大間違いである。
「山本」
「上食三つと牛乳二本」
「上山田」
「食パン二つと、あんパン二つ」
「柏木」
「えーと」 「ぼやぼやすな。配達順で考えたら、サッサと出るはずやろ」
「あっ、イタ!」
 父の竹の物差が飛ぶ。
「田中」
「…」
「毎日のことや。先を読んで、聞かれんでも答え。もっと緊張せえ」
 叩かれて、ちょっと気後れしていると、ポンポンと叱声が飛ぶ。
「順番はわかっとんやから、先を読んで、パッパと返事せー」
 すべて朝食をとりながらのことである。
 さかた屋売りものの、「付け」すなわち月末にまとめて支払うための記録を、 父特製の大きな一覧表に記入する時のやりとりである。


「なんでも一回で十分や。すぐ覚え」
「昨日の分でも、すぐ言えなあかん」
「何日分でも、記憶をたどっていったら、ドンドン出るはずや」
 父の記憶に関する教えは、無数にある。いくら子供だといっても、記憶できていなかったり、 間違えていたら、直ちに月末請求の時に、お客さんから苦情がくる。たび重なるとお客さんが離れてしまう、 という避けられない現実の中のことである。
「子供やから」
「朝早いから」
「数あるうちやから」
 甘えは、一切通用しないと、私達自身が分っていた。だからこそ、この父の、厳しい指示にも、 必死に従い、懸命に努力をしたのだろう。


 こうして、急いで登校する。冒頭の「つり銭の出し忘れ」は、この直後のことである。
 パンなど小さい金額の商品をこまごまと売る商売で、しかも「付け」で支払うことの手軽さを売り物にしているときに、 日々の現金は大変貴重である。つり銭を出し忘れていると、すぐ分ったのであろう。それにしても、 わざわざ、父が取りに来たのには驚いた。
 現金がよほど必要だったのか、あるいは、子供のこととて、休み時間に遊んでいて落とすといけない、と考えたのだろうか。
 長い配達の生活の間に、つり銭を出し忘れたことが、この一回というわけではないことから考えると、この時は、 よほど現金が必要だったのだろう。
 私達がめいめい予想して自分のつり銭を用意し、配達を終えて帰ってからも、父が金額など確認することはなかった。 信頼してくれたものである。私達も、無意識のうちに、その親の信頼を裏切るようなことは、決してしなかった。
 いや、むしろ「大事な皆の家のお金」と家族皆が思っていた。


 小学校に上がるかどうかの頃に始まった、朝六時起床のパン配達は、私達、さかた屋の子供にとっては、 かけがえのない実践的な教育の場であった。父自ら心身共に苦労が多い中、「教育」どころではなかっただろうに、 と感謝している。


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