■ かかれ ■
かかれの絵  「おい、皆廊下へ出ぇ」
「いつも坂田にやられとんやから、皆で坂田にかかれ!」
「わぁー!」


 私が小学校二年生の夏休み前のこと。一年生の三学期に転校してきてから、まだ半年にもならない時期のことである。
 国語か算数の授業のはずだったが、先生が教室に入って来て、皆が緊張して待っていると、
「廊下へ出ぇ」
 突然先生が言い放ったのである。この石原先生は、とにかく意欲的な先生で、当時我々子供達も、 突然何かわくわくするようなことを考えつく先生だと思っていた。生徒の意表をついて、皆が何か授業に飽きているような時は、
「運動場へ出ぇ」
 と言って、生徒を連れ出して鬼ごっこをさせ、しばらく皆に気分転換をさせて、また授業を再開するようなことがあった。この時も、
「運動場やのうて、何をするんやろう?」
 皆一様に期待と不安の入り混じった様子で、ゾロゾロと廊下に出た。もちろん私も。


 皆が廊下に出たのを確かめると、突然先生は、こともあろうに、
「いつも坂田にやられとんやから、皆で坂田にかかれ!」
 と号令したのである。一瞬の間をおいて、
「わぁー!」
 という喚声と共に、男も女もいっせいに私に飛びかかってきた。私には、いったい何が起きたのか、 すぐには分からなかった。すごい圧力で押しつぶされそうになりながら、本能的に頭を抱えてうずくまった。 もみくちゃにされながら、無我夢中で身を守っているうちに、
「やめー!」
 という先生の声で、皆いっせいに私から離れ、ホットした。
「皆集まると、恐ろしいもんやなぁ」
 と思いながら教室に戻った。
 不思議に怒る気持ちも、先生を恨む気持ちも起きなかった。「助かった」という思いの後、何だか妙に、 吹っ切れたような気分で、そのまま授業を受けた記憶がある。クラスメートも、特に余韻をひくことなく、 ゲームでもし終えたようなスッキリとした雰囲気だった。そんなことがあったからといって、 その後も皆の私に対する態度が変化することもなかった。最近よく耳にするような、逆転してのイジメが発生することもなかった。 よほど先生の治め方が優れていたのだろう。
 親には、何か言ってはいけないような気がして、しばらくは黙っていた。


   私の小学校のクラスは五十名余りである。しかも、私は、毎日、朝夕父の自転車のあとをおして、 級友を含むいろいろな家にパンや牛乳を配達をしているので、この出来事は程なく近隣の話題になった。
「何があったんや」
「別に」などと小生意気な返答ができるはずもなく、正直に学校での事を報告した。
「そうか」
 そう言ったきり、父はそれ以上何も言わなかった。


   確かに、その当時の私は、いわゆる、荒れていたのだと思う。転校して来てまだ一年にもならず、 よそ者というような扱いがまだあった。一方で、毎日朝夕、パンや牛乳配達をして父を手伝っており、 少しでも学校から帰る時間が遅くなると、手の足りない父が学校に呼びに来る、という生活であった。そんな中で、 気さくに遊べる友達ができるはずもなかった。今から考えても、実に鬱屈した毎日だったのだろう。
 体が大きいのをよいことに、同級生に、何かとチョッカイを出し、いわゆるイジメをしていた。
 新しい土地で借金からスタートし、懸命に商売をしている父を助け、子供ながらも長男として私は奮闘していた。 他の生徒との協調性など考える余地もなく、肩を怒らせるようなところがあったのかもしれない。
 よく上級生と喧嘩したりして、服が破れ、唇から血が出たまま帰宅し、母を心配させた。
「ちょっと明石公園に行くから、一緒に行こか」
 その頃、近所の縫製工場を経営している「竹内さん」が、ある日曜日に、小学二年の私と、五才の妹を、 遊びに連れていってくれた。後で母に聞いたところによると、日曜日もなく、朝夕パンや牛乳の配達をしているのを可哀想に思い、 身内でもない私達兄妹を、わざわざ明石公園に連れて行ってくれたのだそうだ。
 近所の人が、そのように思いやってくれるぐらいであるから、私には相当、やるかたない気持ちが高まっていたのだろう。


 学校から見えるような位置にある我が家のことであるから、当然先生は、私のそのような普通でない環境を知っていたのであろう。 人一倍教育熱心で、子供の教育に意欲的だった先生は、きっと、このいじめっ子の私と、 いじめられている子供達との両方をどのように扱ってやろうかと、教育者として日夜考えていたのだと思う。


 ことのあらましを知った父は、
「がむしゃらに子供を手伝わせて商売をしてきたが、なんといっても子供、どこかに無理がいき、はけ口を求めていたのだろう。 先生が上手にさばいてくれてよかった。ありがたい。今後は気をつけよう」
 昔かたぎの父としてはそう考え、学校に抗議など思いもよらなかったのだと思う。
いたずらっ子をちょっと叩いただけでも、大騒ぎになる今に、こんな出来事が起こったら、どうなるだろうか、想像に余る。 必ず新聞種になり、教育委員会から、先生には何らかの処分がなされるだろう。
 しかし、良き時代であった。親も子も、クラスメートの父兄も、皆大らかで全く問題にもしなかった。


 それから間もなくの夏休み、突然先生から母に電話がかかった。
「純一君をちょっと学校によこして下さい」
 母は、また何か、と心配しつつ、私にその旨を告げた。私も恐る恐る、夏休みでガランとした学校に行き、指定された工作室に入った。
「坂田、夏休みの特別活動で、紙粘土細工をするから、お前も参加せー」
 他に同級の絵の上手な女子と、工作の得意な男子がいた。特に図画工作が得意でもない自分が場違いな感じがした。 驚いたことに、工作室には天井に届くくらい大きな、木の骨格が組み立てられていた。 石原先生と、先生の知り合いの他の学校の先生との指導で、まず紙粘土を作った。新聞を水につけて柔らかくし、 糊を加えて棒で練りあげる。それを木の骨格に貼り付けていった。そして私達が乗ってもビクともしないほど頑丈な「象」ができあがった。
 何日通ったのだろうか、最後に灰色の色を塗って仕上げた。どの作業も三人で一生懸命やった。


「皆でかかれ」と言った先生が、こんなことをさせるのは、「なんでやろ」と初めは思ったが、作業を続ける内に、
「あぁ、皆と仲良くすることを、教えてくれよんやな」
 と気がついて、無性に嬉しくなった。本来の子供に帰って、私は無邪気に教室に通った。
「石原先生は、ほんまにええ先生やなぁ。ほかの先生とちょっと違うな」
 しみじみと感じた。


 正月に母の田舎に行った思い出を、原稿用紙に書いて絵を添え、冬休み明けに先生に提出したが、いつまでも返されなかった。
「先生、作文返してください」
「ようできとるから、先生の集まりで発表した。えろう褒められた。記念にもろとく」
 帰って親に告げると、
「そうか。ありがたいことやなぁ」
 父も母もとてもうれしそうだった。


 何か、いつまでも心に残る先生であった。


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