| ■ 引越し ■ |
「ここをまっすぐ下へ降りたら、市電みちに出る。そっから市電に乗って終点で降りぃ。あとはわかるやろ」初めて来た所で、しかもそこから見通してもその市電みちが見えるわけでもない。振り返って何か聞こうとしたが、 もう父の自転車は遥か遠くにあった。 私が小学校一年生の二学期が始まって間もない、引越しの翌朝のことだった。 心細さでいっぱいだったが、とにかく、この坂道を下って行くしかない。初めての町の見知らぬ道を、元通っていた学校に行くために、 小学校一年生の私は一人で歩いて行ったのである。 「ほんまに市電のとこへ出るんやろか」 「学校に間に合うんやろか」 引っ越した翌日で、あたりの様子も分からず、戸惑いながら道を下ってゆくと、言われたとおり市電みちはあった。 どのようにして東へ行く電車に乗れたのか。電車賃はどのようにして払ったのか。よく覚えていないが、 何とか東方向へ行く市電に無事乗れた。 「終点で降りたらええ」 そう言われても、不安でたまらなかった。市電といえば、少し前に、元の六甲の家の近くまで線路が伸びた。 「六甲道」という停留所ができて終点となっていた。父母、叔父、叔母と私で、わざわざ乗りに行った記憶がある。 まさか、それに一人で乗って学校に通うなど、想像もできないことであった。 おそらく終点に着くまで立ったまま、前方ばかり必死で見ていたのであろう。父からは、 「あとはわかるやろ」 と言われていたが、その市電の終点が、うまい具合に元の通学路近くにあるはずもない。私は、途方にくれてうろうろと探し、 何とか元の通学路に出て、学校へと急いだ。 しかし先生からは、特に労わられたわけでもなく、子供ながらに淋しかったことを覚えている。 軍需会社の幹部だった父は、終戦後どのようにしても勤め先が見つからず、ついに勤めを諦めた。 最後にパンの小売という商売にいきついたのは、私が五才、終戦後五年余りが経った頃だった。まだ米軍が、 進駐軍として日本を占領していたときである。町のあちこちには、英語の交通標識があった。立小便をすると、 「エムピーが来るで」 と冗談を言っていた頃である。エムピーすなわち占領米軍の憲兵が、いちいち子供の立小便を注意しに来るわけもないが、 そんな冗談が子供にも交わされるような占領時代であった。 父も母も、商売などしたことがなかった。もちろんパンの製造などはできず、菓子パン、牛乳、ケーキ、饅頭などすべて、 ただ小売するのみであった。 父は、手製のパン箱にロープを斜めに掛けて、肩に担いで配達をしていた。雨の時は、パン箱に防水シートをかけ、 簡単な雨具を身に着けるだけで、傘もさせなかった。びしょ濡れになって家に帰り、裸になった父を、 母が懸命に乾いた布でこすっていたのを覚えている。 やがて貸し自転車を借り、つてをたどって、六甲から国鉄一駅半ほど離れた灘方面にも、お客さんを増やしていった。 父の思い出話によれば、ある日灘方面の配達を終えて、何軒かの店が少し並んだ道まで降りてきたところで、 角地に「売り地」の看板を立てているのに出会ったらしい。 「そこ買うから、看板外してくれ」 父はなんと思ったか、資金の算段も立てないうちに、反射的に頼んだそうだ。しかし、周旋屋に聞いてみると、 あまりにも金額が高すぎた。なんと父はその土地の隣りの酒屋さんに、 「隣りの土地が売りに出とるけど、半分ずつ買いまへんか」 と持ちかけて、半分の土地を購入したそうである。 六甲の家を処分してその土地を購入し、残りで家族の住まいのついた、小さい店を建てる算段をしたらしい。 大工さんに、たくさんのお金を渡していた光景を覚えている。ところが、その大工さんはお金を持ったまま夜逃げをしてしまい、 父がその家に行っても誰もいなかったようだ。そのとき、父母から、 「詐欺におうた」 と聞かされたが、小学校に上がって間もなしの私には、何か大変なことが起こったらしい、ということは分かっても、 「詐欺」という言葉の意味が分かるはずもなかった。突拍子もないことだが、鳥の「サギ」を思い浮かべて、 何か不吉な鳥に出会って困っているらしい、と思った。母が独身時代に友人と、姫路城の前でとったきれいな写真を見るたびに、 「白鷺(しらさぎ)城、言うんや」 と母が説明してくれていた。その「さぎ」と「サギ」がどんな関係になるのか戸惑っていた。 しかし、そんな事態にもめげず、両親は、どこで工面したのか借金をして、何とか店を建てたのである。 話しによれば、父はもちろん母も、パン、饅頭、ケーキ、菓子、牛乳、ありとあらゆる仕入先から、こまごまと資金を借りまくって、 何とか開店にこぎつけたのだそうである。 新しい土地での配達用に中古の自転車も買った。建前の時は、私もその自転車の後ろに乗せてもらって行った。 暗い中に白く見える柱がたくさん見える。電気もなくほの暗い中で大工さん達が一升瓶から注いでお酒を飲んでいた。 父は、そんなふうに何かと言えば、自転車の後ろに私を乗せて、どこへでも連れて行ってくれた。 二学期初めのある日、いよいよ引越しとなった。あいにくの雨。父は自転車の後ろに借りてきたリヤカーをつけ、 母に後押しさせて、何度も往復して荷物を運んだ。最後のときに、私もリヤカーを押して懐かしい家をあとにした。 リヤカーの後ろに、犬の「ピス」も繋いで連れて行った。 思えばこれは、私が父の自転車を押すようになった始まりだった。 着いてみると、建前の時とは違ってちゃんと店になっていて、嬉しかった。しかし、中に入ると、 あんまり小さいのでちょっとがっかりした。狭い店に、中古の陳列ケースがひとつと、 その横に小さな新しい陳列ケースがひとつあるだけである。そんな中でも、パン箱を入れる網戸のついた押入れのような場所、 パン切りの機械、牛乳をいれる前面ガラスの冷蔵庫は、珍しかった。ところが、店の奥のガラス障子を開けると、 部屋は六畳一間だけで、その先は、もう外の地面。まだ処分されない土が残されたままなのである。 六畳の部屋の右奥には、流しとかまど、左奥にはトイレがついている。土の山の向こうは石垣で、 その上の簡単な板塀の向こう側は、他所の家である。 どのように、その夜を過ごしたかは忘れたが、翌日はさっそく仕入先からパンや牛乳が届き、直ちに父は配達に出た。 朝食のあとさらに父は、パンの小売を始めた場所である元の六甲方面へ、配達に出発した。母は店の整理に、妹たちの世話にと、 とてもじゃないが、私を学校に連れてゆく暇などはなかった。 住まいを売って土地を購入し、借金をしてようやく、居間は六畳一間きりの店を建てた。屋根は、瓦を葺いていない下地のままの、 いわゆるトントン屋根である。借金の上にさらに借金をして商品を購入した。新しい土地で十数軒のお客さんを頼りに、 小一の私と五才と二才半の妹の、親子五人の生活をまかなうための商売が始まったのである。 ほんの昨日までは、父が私を自転車の後ろに乗せて、どこにでも連れて行ってくれた。それが、引越しの翌日に、 「市電に乗って一人で元の学校へ行け」 と言われた。 「もう甘えとられへん」 その覚悟を十分にさせる、初登校であった。 その後間もなく、朝六時に起床して、父の自転車のあとを押し、パンや牛乳の配達を手伝ってから学校に行くという、 厳しい生活が始まったのである。 |
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